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2009年3月

インドの旅(1998・3)

現在のインドはIT産業などが盛んで、成長著しい新興国と言われるが、私が訪れた10年前は貧しい人達が多く(今も人口の3分の1の人々が1日1ドルで生活をしている)バスを降りると子供連れの乞食が物乞いに押し寄せてくる。可哀想だと一人の子供にキャンデイ等与えると取り合いの喧嘩が始まる。全員に行き渡らないなら”小さな親切は反って大きな迷惑”なのだ。又或る朝、郊外をバスで走っていると一定間隔で道端に人が蹲っている。よく見ると野糞の最中だミサイルを作れる国が農村にはトイレがないのだ。インドの貧しい人達は隣人がプール、テニスコート付きの豪邸に住んでいても羨ましいと思わないそうだ。理由はカースト制度(僧侶、王侯・武士、平民、隷属民)とこの4段階にも入らないアチュート(不可触民と言われる1億人の人達)と言う身分制度が今も厳然と根付いている為だろう。1950年制定の憲法で人種差別の全面禁止を明記しているが実際には今も社会に深く根付いている。更に職業別ではジャテイと呼ばれ2000とも3000とも言われる階層に分けられ、生まれながらに身分と職業階級が決まっており、幾ら努力してもそこから抜け出せないのだと言う。丁度独立50周年の年だったが多民族、多宗教社会の矛盾を感じた旅だった。話題を変えよう。丁度訪問した時がインド3大祭りの一つHOLIの奇祭に遭遇した。春の到来を祝って北インドを中心に街頭で色粉や水を相手構わずかけ合う。勿論観光客にもお構いなしだ。又車に牛フンを投げつけ障害物で通行止めをし、チップを渡せば通してくれる。数人の子供達が牛フンに混じって石を投げ付けた為バスのフロントガラスが粉々になり運転出来なくなった。運転手と村人がもめだし、時と共に群衆は膨れ上がり危険な状態になってきた。運転手は仕方なく粉々になったガラスを撤去して走り出した。運転席と客席が仕切られたバスだったので我々は差ほど感じなかったがインド北部の3月はまだ寒い。フロントガラスがないまま吹きさらしを運転手はよく頑張ったのも思い出だ。街にはやせ細った牛が寝そべり、彼方此方に糞が散らばり顔の扱けた人が物乞いに来るカルチュアショックの連続だったが、ハマる人は魅っせられるそうだ。そんな旅行の一コマを紹介します。

インド門

File0006 1911年コルカタからデリーに英領インドの首都が移され、イギリス人建築家ラチェンズによりニュデリーの建設が開始され1931年に完成した。コンノート・プレイスから東南2・5kmにある高さ42mの新生インドの象徴とも言われる巨大な門は、第一次世界大戦で戦死したインド兵士の慰霊碑。インドは戦後の独立を条件にイギリスに協力して参戦したが、大きな犠牲と引き換えの独立は実現しなかった。壁面には戦死した数万人の兵士の名前が刻まれていた。

クトウブ・ミナール世界遺産)  

File0001 ニューデリーの南郊外約15km、平原に一際高く聳えるデリーに残る遺跡の中で最も古い時代に属する塔。12世紀にこの地を征服し、最初のイスラム教徒の王朝を開いたクトウッブデイン・アイバク王が戦勝記念塔として1199年に建てた。5層から成り72・5mの高さでインドに現存する石造りの塔では一番高い。第一層はヒンドウ様式、第二・三層はイスラム様式で赤砂岩で造られておりコーランの文句を図案化した彫刻が壁面に刻まれ、第四・五層は後の時代に倒壊し建て直したもので大理石作りだった。モスクでの礼拝を呼び掛けるためにも使われたようだ。遺跡の隅にはゴミが山積され、犬の糞が散乱し乞食が寝そべっていたりと世界遺産の管理にまで手が回らない様子だった。

3、フマユーン廟世界遺産

File0002 前後左右対称設計のムガール帝国第二代皇帝フマユーンの墓廟。皇帝の没後、王妃ハージー・ベーガムによって着工され1565年に完成した建築物で庭園と共に幾何学的な構成で建物内は幾つかの部屋に分かれ、皇帝や一族の棺が各室に置かれていた。

タージ・マハル世界遺産

File0004

ムガル帝国第五代皇帝シャー・ジャハーンが愛妃ムムターズ・マハルの死を悼んで造営した霊廟でヤムナー川の辺に聳える総大理石作りの建築と、幾何学的に構成された庭園は天上的とも言える美しさだった。1632年に着工し完成まで22年の歳月を費やしたと言う。1階の中央に大理石の棺があるが、これは参拝社用で地下に降りた丁度真中に妃ムムターズの棺と皇帝自身の棺が並んで安置されていた。

5、アーグラー城世界遺産

File0003 1565年に第三代皇帝アクバルによって築かれ3代に亘ってムガル皇帝の居城となった要塞。ヤムナー川を見渡す好位置に造られたが八角形の美しい塔はムサンマン・ブルジュ(囚われの塔)。元はジャハーンギル帝が愛妃ヌール・ジャハーンの為に建てた物だが晩年謀反を起こした息子に幽閉され、妃のために建てたタージ・マハルをヤムナー川の彼方に眺めながら生涯を終えた悲しい城だが、城の上から眺める夕日が沈むタージ・マハルは壮観だった。

フアテーブル・スイークリー世界遺産

File0007 アクバル帝の時代に1574~1588年の僅か14年間だけ都があった。アクバル帝は長く世継ぎに恵まれなかったが、この地の預言者によって子宝を授かったことを喜びアーグラから遷都した。しかし水不足と夏の猛暑に悩まされこの地を見捨てることにした。以来廃墟となったことが幸いし当時の建物が其の侭の姿で残された。ヒンドウ様式とイスラム様式が混在した建物。

7、風の宮殿

File0005 シテイパレスに隣接し、大通りに面して建つ5階建ての建物だが、通りから見ると透かし彫りの格子の付いた出窓がどの階にも並ぶ。しかし奥行きは僅かで映画のセットのようだ。王妃や後宮の女性達が顔を見られずに格子の隙間から街の様子を見られるようにと1799年にマハーラジャ・サワイ・ブラターズ・スイングが建設したもの。当時の風習で女性は夫以外の男性に顔を見せてはいけない決まりになっていたそうだ。風が格子を通り抜ける時に快い音を立てるので、こう呼ばれるようになった。

8,アンペール城

File0009 ジャイプルのピンク・シテイが建設されるまで王城であった。11世紀この岩山に小さな砦があったが1592年ムガル帝国と同盟を結んだラージ・プート族のマーン・スイング王によって築城され、以来代々の王の時代に増築され今日残っているような形に完成を見たのは1727年にジャイプルに遷都する直前のことだった。荒涼とした岩山にそそり立つ堅固な要塞は、如何にも勇猛果敢で知られるラージプート族の王城に相応しい。岩山

File0008

の麓から城の入口までは150m程の急な坂を登らねばならない。行きは4人乗りの象のタクシーに乗り、帰路はジープで降りたがスリルがあった。城内には”接見の間”を通って上へ行くと”勝利の間””幸福の間”等の建造物が続く。ジャイ・マンデイルの内部は迷路の様だが玉石を散りばめた装飾で、最上階まで上ると城内の様子や周囲の岩山の景観が見事だった。庭園をはさんで反対側の”歓喜の間”は室内を水が回るように作られていて、かってここで涼しく暮らしていたマハーラジャの一族の繁栄ぶりが想像できる。”勝利の間”の屋上から見える池の真ん中には、やはり幾何学模様をした庭園があり、マハーラジャは夜ごと開かれる宴を眺めて楽しんだそうだ。城内は風通しがよく日光が入らないように上手く設計された窓と言い、見た目にも住むにも良くできた城なのだろう。

9,シテイ・パレス

File0011 18世紀初頭にこの地方を支配していたラージプート族の藩王マハーラジャ・サワーイ・ジャイ・スイン2世により1726年に造られた。最初から残っているのは周囲の外壁のみで中の建物は後の時代に造られたものが多く、宮殿の一角には現在もマハーラジャの子孫が居住していた。7階建ての”月の宮殿”の1階と2階は博物館として公開され、かっての”接見の間”は図書館として利用されていたが内部のガラスやタイルの装飾は見事なものでよくここまで残せたものだ。

10・ジャンタル・マンタン(天文台)

File0010 この街の建設者マハーラジャ・ジャイ・スイン2世は天文学の造詣に深くペルシャやヨーロッパの書物を集めて造った天文台で、敷地内に巨大な日時計、星座や天体の動きを観測する幾何学的な建築物が並んでいた。ジャイ・スインは5か所に同様な天文台を作っているが特にジャイプルのものが巨大で観測儀の数も多いようで現在のものは1901年に修復されたもの。

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