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2009年5月

ギリシャの旅(2001・5)

一度は訪れてみたい国だったので阿刀田高の”ギリシシャ神話を知ってますか”と”ホメロスを楽しむために”を読んで何となく聞いていたギリシャ神話の本当の素晴らしさを知った積りで旅立ってから8年が過ぎ去ってしまった。紺碧の空とエメラルド色のエーゲ海、立ち並ぶ家々は白い壁と赤い屋根狭い坂道にはブーゲンビリアが咲き乱れる素晴らしい所だった。最後の夜,地元の人に教えられたギリシャ料理専門店でのロブスターは美味かったが支払ったクレジットカードのサインを真似て帰国後架空請求が2回も来たのには参った。幸いカード会社が偽サインを見破ってくれ実害を受けなかったが苦い思い出だった。そんな旅の写真の一部を紹介します。

1、バルテノン神殿世界遺産

File0003 アクロポリスの丘の中央に立つアクロポリスで最も大きな神殿。アテネ中の彫刻家、石工、金工を総動員して15年がかりでBC432年に完成した。元来アテネの守護神アテナを祀った神殿だが、内部の”乙女の間”の名称ベルテノンが後に神殿全体を表す名称となった。以後アクロポリス(高い丘の上の都市)を意味する聖域として市民の精神的な中心となったようだ。

2、国立File0001_2考古学博物館

ギリシャ全土の出土品の中から選りすぐった傑作を展示しており、世界でこれ程充実した考古学博物館は数少ないと言われアクロポリスと並ぶアテネ観光のハイライトでもある。館内は1階と2階に分かれ1階には先史時代からミケーネ文明の時代を経て古典時代、ビザンチンへと至るギリシャ美術の流れが時代別、モチーフ別に整理されておりギリシャ文化の全貌がよく理解できた。2階は陶器やエーゲ海のサントリーニ島のアクロテイリ遺跡から発掘された壁画などが展示されていた。又シュリーマンがトロイやミケーネから発掘した有名な出土品も多いようだ。写真は1904年ミロス島で出土した”アクロデイテとバン(牡羊神)の像

3、オリンピックスタジアム

File0002 元々1996年にオリンピック招致の為造られたスタジアムだが後に2004年アテネオリンピック開催に向けてスペイン建築家カラトヴオに依って大改修が行われ メーン競技場として屋根付きの現在の形になった。訪問当時は写真のような姿だったがスタジアムの片隅に第1回のアテネに始まり歴代のオリンピック開催地が刻まれた石碑が建っており1964年の東京も刻まれていた。

デルフイの遺跡世界遺産

File0004 ギリシャ中部のバルナッソス山の南麓にあった都市国家でデルフイを有名にしたのは神のお告げ”神託”である。古代ギリシャでは大事を決する時に重要視され、特に太陽神アポロンを祀るデルフイの神殿で授かる神託は霊験新かであった。現在数本の柱と土台だけが残っているアポロン神殿は紀元前330年頃のもので、天然の石を削って造られた円形劇場は、此処でアポロンを祀るビュテイア(デルフイ)祭りが4年毎に開催されたようで、これがオリンピックのルーツかもしれない

5、メテオラ世界遺産

File0006 "空中に吊り下げた”と言う意味の奇岩が広がり、高さ20~400mの岩塔が数百本立ち並び、その上に修道院がある。修道士達は世俗を離れて厳しい戒律のもとに修業生活を営んでいる。今では吊り橋や階段があるが20世紀初頭まで修道士と下界を結ぶのは縄梯子や滑車だけ。隠者が神々との交信を求めて岩の割れ目などに庵を建て住み着いたのが9世紀。14世紀戦乱を逃れて集まった修道者達の共同生活が始まり1356年アトス山から移住してきたアタナシウス修道士によって最初の修道院が建てられた。代々国王の庇護のもと聖地として発展、16世紀最盛期には24の修道院があったが現在は6修道院が活動していた。崖にへばり付く階段を上り下りしながらの観光はスリルがあり過ぎた。

6、イドラ島

File0007 映画”イルカに乗った少年”の舞台になった島で、以来しばしば映画撮影にも使われる美しい島でエギナ島の南にある東西20km、南北5km、人口2800人の細長い島。島内の建物は全て白壁で、屋根は赤。車が禁止されているためロバが唯一の交通機関と言う長閑な雰囲気の島だった。18~19世紀海上貿易で繁栄し、その頃の船長達の邸宅が今もミリの丘に何軒も残っていた。どの屋根も砦のようで壁には銃眼の穴が開いていた。 大聖堂やプロフエト・イリアス修道院の散策も楽しかった。

7、エギナ島

File0005 エーゲ海のサロニコス湾の中央にある島で人口14000人とサロニコス諸島では最も人口が多い。古代アテネの人々は”ピレウスの目ざわり”と呼んでいた。全体に山が多い島で古い家並みや教会が印象的だった。博物館、アポロン神殿、アフエア神殿等があったが坂のある白い家々が印象的だった。かってエギナ島は古代に独立ポリス(都市国家)として栄え、アテネとはライバル関係にあったほど勢力は強大なものだったようだ。1827~29年の独立戦争中には一時的だがギリシャの首都でもあった。丘の上まで上がりエーゲ海を眺めながらブーゲンビリアが咲き乱れる坂道を降りたが素晴らしい眺めだった。

8、ポロス島

File0008 東西10km弱の小さな島で人口4000人程。サロニコス諸島の中ではベロポネソス半島に最も近い位置にある。ポロス島は実際には一つの島ではなく、水路をはさんでカラヴリアとスフエリアと言う二つの島からなる。2島間には小さな橋がかかっていた。島はオリーブと松の緑に覆われ、丘一面に白い壁とオレンジ色の屋根の家々が貼り付くように建っており、紺碧の空と青い雨戸そして白い壁のコントラストが素晴らしかったポセイドン神殿やゾードホス・ビギ修道院等もあったが対岸のベロポネソス半島のガラタの街を眺める景観が素晴らしかった。

9、ゼウ殿

File0009 ハドリアヌスの門のすぐ南にあるゼウス神を祀った神殿の遺跡。BC515年に着工しハドリアヌス皇帝の時代に完成した。かっては104本のコリンソス様式の柱が並ぶ壮麗な神殿だったが、4世紀ゴート族の侵略で破壊され、現在は15本の柱が残るのみで、神殿の遺跡の他に前門の跡や2世紀のローマ風呂跡が残っていた。

10国立庭園

File0011 シンタグマ広場から無名戦士の墓(民族衣装を着た衛兵の1時間毎の交替が見もの)を経て国会議事堂の南に広がる緑の別天地で、園内には無数の樹木が繁り、水鳥が遊ぶ池もあった。元々オットー1世の王妃アマリアの設計によって古代庭園を造り直した王宮の庭園。丁度ジャカランタの花が咲き誇っていた。

11ポセイドン神殿

File0010

紀元前444年に建てられたドリア式建造物で、今は高さ6mの白い大理石の柱が16本だけ均整のとれた美しさで夕陽のスニオン岬の丘の上に立っていた。神殿の柱には18世紀以後此処を訪れた人の落書きがあり、英国ロマン派詩人バイロン(1788-1824)の落書きもあった。

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石見銀山と出雲大社の旅(2009・5)

我が国で14番目にユネスコ世界遺産登録(2007・7)され、産業遺跡としては我が国初めての登録になる石見へ行ってきました。石見銀山は大永6年(1528)頃に博多の商人・神屋寿禎の発見により開発され、天文2年(1533)に銀の製錬に灰吹法を導入し大量生産が始まったようだ。石見銀山から始まった工法が10年後には玉野銀山(兵庫県)に伝わり、15世紀末には佐渡銀山の開発が進み日本の金銀生産ラッシュを起こしたと言われる。16世紀の日本は中国、朝鮮を始めとするアジア諸国との交流が盛んになると共に東方に進出してきたヨーロッパ人との国際貿易の輪の中に入り、その流通を支えたのが石見銀山から産出された銀経済であると言われる。当時世界の産出量の3分の2を石見で生産していたと言うから、現在の資源貧乏国日本では考えられないブームだったのだろう。そんな時代のロマンを求め、そして玉造温泉で1泊し現在60年振りで”平成の御遷宮”中の出雲大社を久し振りに訪ねました。そんな旅の写真を紹介します。

1、龍源File0005_5寺間歩

銀を掘る為に掘った坑道を間歩(まぶ)と言う。明治期の採掘痕跡を留めているのは最大規模の大久保間歩だが一般公開されていない。(4・3~11・29の金、土、日、祭日のみ事前申し込みで1日4回のツアーがある)龍源寺間歩は唯一公開されている間歩で正徳5年(1715)の開発で代官直営の”5ケ山”の一つ。閉山は昭和18年(1943)なので228年間掘られた公開範囲は入口から160m程だが人の手で銀脈を掘ったノミの痕跡がよくわかる。

清水File0002製錬所跡

武田恭作 設計により巨額の資金を投入し近代技術を具現したはずだったが前近代の採掘によって枯渇した銀鉱の息を吹き返す力にはならず、建設から1年半で頓挫してしまった。そして製錬の拠点は永久鉱床を狙った柑子谷の永久製錬所へ移った為、この製錬所は比較的原形を残したようだ。調査は2007年に開始されたばかりで現在も”進入禁止の縄張り”内へ入ることができなかったので遠望のみだが、町工場の集積のように各々が多工程をこなし熟練者達が創意工夫を凝らした産業の痕跡だとか。

大森の町並み保存地区

File0011昭和32年(1957)大森町全戸が加入した大森町文化財保存会が結成され石見銀山遺跡の保護が民間の手でスタート。銀山川に沿って形成された全長約2・8kmの細長い町並み保存地区が生まれ、遺跡の清掃活動、説明板設置等が行われたが昭和30年~40年過疎化、高齢化が進む中で遺跡の保存と活用を進める活動を推進し昭和62年(1987)国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。建物の外観を復元し、伝統的建造物を実生活に調和した手法で修復し今日の町並みを保っているとのこと。

4,代官File0003所跡

鉱山とその周辺は幕府直轄領として整えられていたが銀鉱石の衰退と共に延宝3年(1675)に奉行から代官に格下げとなり、以降明治維新迄代官所が県庁になるまで銀山領を統治した。表門と門長屋は文化12年(1815)の建設、中の建物は明治になって取壊され現在の建物は明治35年(1902)に建てられた邇摩郡役所、左に銀生産を担当する銀山方、右には地方の料役所、奥が代官の公邸で現在は石見銀山資料館として一般公開

5,羅漢寺

File0001_3 大森地区の南西端にある羅漢寺(真言宗)は18世紀中頃の建立。山門正面にある岩窟には500余軀の羅漢坐像が中央の釈迦三尊像を中心に左右の窟に納まっている。窟は宝歴7年(1757)の開設とされ、造設には初代住職が中心となり、大森代官や有力町人等が協力したとされる。江戸を始めとする各地の天領や石見、出雲の近隣在郷の人々から託された祖霊や亡き者への供養のための信心が込められていると言う。石材は何れも銀山遺跡の凝灰岩を使っていた。

出雲大社

File0002_2 縁結びの神、幸福の神として親しまれ大国主命を祀った全国の神様が集まるところ。この社が創られたのは神代の昔、日本でも最古の神社建築様式で荘厳な佇まいだ。27000㎡の敷地に本殿、拝殿が並び、鬱蒼と茂る緑に囲まれた参道には大国主命の銅像があった。大国主命とは昔話の”因幡の白兎”に出てくる大黒様のこと。

7、大社本殿

File0003_2

大国主命の御神徳に相応しい日本一のスケールを誇る本殿は丁度60年に一度の”大遷宮祭”(本殿の檜皮葺の葺き替えのみならず境内外の摂社、末社も修造)が行われており鉄骨屋根で覆われ全貌を見ることは出来なかったが東大寺の大仏殿を凌ぐ48mの高さだったそうだが、鎌倉時代に改築され24mの小振りになったそうな。堂々たる大社のシンボル、大社造りと言われる様式は珍しく簡素だが気品に満ちていると言われる。屋根に組んだX字型の千木が直線的な美しさを強調していた。

8、東西十九社

File0004 大社の東西に”東十九社””西十九社”と言う長屋式建物がある。神様専用の宿で全国から集まってきた神様達が滞在して1週間を過ごすと言われる。東西とも19の扉があり旧暦の10月10日~17日には、これを開いて神様を迎える。これが神在祭。集まった神様達が人々の幸福の為に会議を開いてくださるとか?10月の事を神無月と言うが出雲だけはこのとき神様が集まっているので神在月と言う。

9、おみくじ

File0001_2出雲大社のおみくじは吉、凶が書かれていない吉凶にこだわる事よりも神様からのメッセージを読み込むことが大切とされる。運勢を表す短い文が書かれている。種類は30.境内の松・杉などに良い縁が結ばれますようにと願いを込めて”おみくじ”を結ぶそうだ。杉の大木一面に”おみくじ”が結ばれているのは壮観だった。

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