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2009年12月

紅葉あちこち(2009・12)

昨年に続いて今年も彼方此方の紅葉を撮ってきました。概して感じたのは今年の紅葉は早かったせいか色あせ、一斉に燃えるような紅と云った美しさはなかったようだ。シャッター・チャンスを求めて京都、奈良、東京を巡ってきましたのでその一部を紹介します。

1、南禅寺

Img_0003 1264年(文永元年)亀山天皇の離宮として造営されたが後、寺に改められ足利義満の時代には京都五山よりも上位に遇され禅宗寺院の最高位を誇った名刹。歌舞伎”金門五三桐”で知られる三門は1628年(寛永5)の再建で、高さ22mの楼上から天下の大盗賊・石川五右衛門が絶景かな絶景かな”と見えを切った所で京都市街が一望できる。国宝の方丈は御所の清涼殿を移建した大方丈と伏見城の小書院を移建した小方丈から成っている。三門にかかる紅葉が美しかった

2、大沢池

Img_0004 嵯峨野大覚寺の東にある周囲約1kmの日本最古の人工の林泉。嵯峨天皇が離宮・嵯峨院を造営した時の池泉月遊庭園が遺構で、中国の洞庭湖を模して造られたところから”庭湖”とも称される。堰堤には楓と桜が交互に植えられ心経宝塔を水面に映す。池の周りの染井吉野、山桜等桜の名所で、又秋には月の名所で観月の夕べが行われる。時代劇のロケーションによく使われる場所でもある。写真は天神島へ渡る橋の袂。

3、等持院

Img_0002 1341年(歴応4)足利尊氏が等持寺の別院として夢窓国師を開山に創建。尊氏没後此処で葬儀を行い、尊氏の法号を取って等持院と改めた。以後足利歴代将軍の廟所となり、足利氏の菩提寺となった。庭園は東西に分かれ、東は衣笠山を借景とした池泉廻遊式、西には茶室清漣亭があり霊光殿に歴代将軍の木像が安置されていた。写真は芙蓉池の庭へ至る辺りの庭園。

、仁和寺

Img_0003_3  886年(仁和2)光孝天皇の勅願で造営が始められたが翌年天皇が崩御した為、宇多天皇に引き継がれ同年竣工。年号を寺名とした。宇多天皇が落髪入寺する際、寺内に御室(御座所)を設けたことから御室御所と呼ばれた。以後明治まで代々皇子皇孫の法親王が門跡となり門跡寺院の筆頭にあった。堂塔伽藍は応仁の乱で多くを焼失、寛永年間に再興した。仁王門は徳川家光の寄進。金堂は御所紫震殿を移築。写真は一部枯れかけていた紅葉をアクセントに五重塔を撮った。

5、東福寺

Img_0001 臨済宗東福寺派の大本山で京都五山の一つ。鎌倉時代九条道家が規模を東大寺、教えを興福寺に習おうと一字づつ取って1255年(建長7)創建した6万坪の禅刹。国宝の日本最古の三門、便所では日本唯一重要文化財指定の禅宗寺院様式の東司がある。通天橋一帯は紅葉の名所だが時期を失した。

奈良公園

Img_0002_2 太政官布達により明治13年(1880)に開園。総面積500haだが周辺の興福寺、東大寺、春日大社、奈良国立博物館等も含めると660ha(東西4km、南北2km)で桜の頃も美しいが紅葉の時期が好きだ。特に東大寺から二月堂に抜ける裏参道が美しい。奈良を写した写真家入江泰吉が好んだ道だ。石畳の両側に曲がりくねった土塀が続き、その先にお水取りの行事で知られる二月堂の堂宇が聳え建つ裏参道の一つ手前の名も知らぬ寺院脇に真紅に燃えていた。

神宮外苑

Img_0004 明治神宮外苑は明治天皇とその皇后・昭憲皇太后の遺徳を永く後世に伝える為、全国の国民からの寄付金と献木、青年団の勤労奉仕によって聖徳記念館を中心に、体力向上や心身鍛錬の場、文化芸術普及の拠点として旧青山練兵所跡に大正15年(1926)完成したもの。銀杏並木は大正12年に代々木の宮内省豊島御料地内の苗圃で樹高6m内外に成長した木から選ばれ、現在は146本が9m間隔で植えられ途中西折れして秩父宮ラグビー場に至る2条も含み一番大きいのは樹高28mに達する。外苑前駅と青山一丁目の中間にあるこの銀杏並木に沿って高級ブテイックやレストラン等が建ち並ぶ美しい並木道だ。

8、六義園

Img_0006 五代将軍徳川綱吉の信任が厚かった川越藩主・柳沢吉保が元禄15年(1702)築園した回遊式築山泉水庭園で園名は古今和歌集の序文にある六義に因み命名された。園内88箇所の名勝と共に元禄時代を代表する和歌趣味豊かな大名庭園だ。明治時代に三菱の創業者岩崎弥太郎の別邸となり昭和13年東京市に寄付されたもので国の特別名勝。梅、桜、つつじ、紅葉等季節ごとに楽しめそうだ。

9、小石川後楽園

Img_0005 江戸時代初期、寛永6年(1629)に水戸徳川家の祖である頼房が中屋敷として造ったもので二代藩主光圀の代に完成した。回遊式築山泉水庭園で光圀は明の遣臣・朱舜水の意見を用い、円月橋、西湖堤等中国の風物を取り入れ中国趣味豊かな庭園にした。後楽とは中国の范仲淹の“先憂後楽”から取ったもの国の特別史跡、特別名勝に指定されているが、この二重指定は全国でも浜離宮恩賜庭園、金閣寺等ごく限られたもの。

10、東京都庭園美術館

Img_0007 昭和8年(1933)に建築され香淳皇后の叔父にあたる朝香宮鳩彦王が1947年の皇籍離脱まで暮らした邸宅その後吉田茂によって外務大臣公邸として使用され(1947~1950)後、西武鉄道に払い下げられ国賓、公賓来日時の迎賓館として使われたが1981年に東京都が買い取った。庭園は芝生庭園、西洋庭園、日本庭園からなるが特に日本庭園は紅葉の名所として知られる。

11、新宿御苑

Img_0005_2 新宿御苑のルーツは徳川家康が江戸に入った翌年・天正19年(1591)譜代の家臣内藤氏が屋敷地として拝領したもの。元禄11年(1698)幕府は下屋敷の一部を返還させ甲州街道最初の宿駅”内藤新宿”を設けた。明治に入り大蔵省が59haを購入し牧畜、園芸の改良を目的とした”内藤新宿試験場”を設置。明治12年皇室に献納。明治39年(1906)新宿御苑と名称を変え、戦後一般公開された。広さ58万㎡、周囲3・5kmの園内には整然としてフランス式整形庭園、広々とした芝生のイギリス風景色庭園、日本庭園等が点在し玉藻池に映える紅葉が見事だった。

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マルタ島の旅(2002・12)

当時は未だマイナーだったマルタだが旅友達に勧められ行ってきました。地中海の真ん中に浮かぶ佐渡島の半分程度の面積に37万人の人達が住む5つの島から成る共和国だ。中世の聖ヨハネ騎士団が造ったスケールの大きな城塞都市で、更に世界最古の建造物と云われる巨石神殿群世界遺産が3つもあるのに驚いた。2004年以降新型バスに代わってしまったようだが当時はヨーロッパやアメリカで使われていたボンネット付クラシックバスが全島をくまなく走っており、さながら田舎のバスは・・・と云った雰囲気だった。人々は少しシャイだが陽気で旅行者には親切。道を尋ねれば曲がり角まで案内してくれるし、何と云っても治安の良いのが嬉しい。真夜中の女性の独り歩きもOKと云うのだからご機嫌だった。1ケ所のホテルに逗留して、ガイドブック片手に路線バスを乗り継いで自分の足で観光できる旅本来の楽しさを教えてくれた旅だった。生憎イタリア付近に低気圧が停滞し続けた為明るい写真が撮れなかったのが残念だったが7年前の思い出を紹介します。

1、ヴアレッタの街世界遺産

Img_0001_2 人口9000人のマルタ共和国の首都十字軍で活躍していたヨハネ騎士団が1530年オスマントルコに追われロードス島から撤退した時、時の神帝ローマ皇帝カール5世が彼らに代替地としてマルタ島を与えイスラムの最前線とした。1565年の激戦で勝利したのを機に北東部の岩だけの沿岸に城塞を囲んだ堅固な要塞都市を建設し、騎士団長ジャン・バリソ・ド・ヴアレッタに因んで命名されたと云う。アッパー・バラッカ・ガーデンのグランドハーバ沿いの家並みや城塞の眺めが素晴らしかった。

2、騎士団長の宮殿

Img_0003 石灰岩の大きな建物の内部には2つの中庭があり、その周囲に各部屋が続いていた。現在は大統領府と議会が置かれているので見学は一部しかできなかったが緑の中庭は100年程前まで騎士団の水飲み場だったと云う。奥の2頭の獅子が守る入口は階上の旧兵器庫で現在の議会に通じているそうだ。兵器庫の通路は色大理石が床を覆い、脇には甲冑が並ぶ。入口を進んだ右側は、”審議の間”1926~1976年までマルタ議会が置かれた部屋で団長から寄贈されたアフリカ大陸とアメリカ大陸を描いた18世紀のタペストリー10枚が飾られた豪華な宮殿だった。

3、聖ヨハネ大聖堂

Img マルタ 騎士団の守護聖人ヨハネに奉げられた教会で外観は簡素だが騎士団の富と力を結集した内部は実に豪華だった。中央祭壇に続く身廊の石灰岩の柱には紋章や彫刻が施され、床には有力家系の出身者らしく美しい色大理石を用いた墓碑が敷き詰められ、天井には聖ヨハネの生涯18場面等が描かれていた。隣接美術館に収められたカラヴアジョの傑作”聖ヨハネの斬首”は素晴らしかった。

4、古都イムデイナ

Img_0007 マルタの古都で聖ヨハネ騎士団が来島するまでは首都だった。ビルグ(現在のヴイットリオーザ)やその後ヴアレッタの完成によって政治、経済の機能が移ってしまい寂れてしまった。サイレント・シテイ(静寂の街)とも呼ばれるが建物の壁の間をすり抜けるような路地が素晴らしかった。盛時には24の貴族の館が建ち並んだ”城壁の街”にはマルタ・ストーンの家々が迫り、くねくねとした狭い小道が続きブーゲンビリアの鮮やかな花々が咲き乱れる。バロック様式の館には優美なアーチを描く窓や装飾豊かなバルコニーが軒を飾り、馬車が闊歩する長閑な景色だった。

5、イムデイナの大聖堂

Img_0010 セントポール広場の一角に建つ。大地震の後、17世紀にマルタ人の建築家ガッフアにより建造された。聖パウロの生涯壁画のうち”難破”の作品は13世紀末の地震から奇跡的に残ったと云われる簡素なバロック様式のフアサードに二つの鐘楼があり内部はラテン十字型だった。聖パウロ教会はパウロが布教したという地下の洞窟を持ち小像が安置されていた。床には色大理石の墓碑が並び、聖具室の扉は12~13世紀のアイルランド産の栗の木で造られたものでノルマン人の時代のものとか。メインゲートの右側にはヴイヘーナ邸(元騎士団長の私邸)があり現在は国立自然科学博物館になっていた。

6、ハジャー・イム神殿世界遺産

Img_0011 地中海を望む大地の上に600mの距離を置いてハジャー・イムとイムナイドラの二つの巨大神殿遺跡があった。紀元前2800~2400年建造と云われる。ハジャー・イムとは”聖なる石””崇拝の石”の意味で、此処でも頭部のない5つの豊満な裸身像や螺旋模様が描かれた祭壇が発見されたそうだ。この裸身像は伝説では巨人の女神が居たと伝わりマルタのヴイーナスと呼ばれていた。ゴゾ島のジュガンテイーヤ神殿と比べ石の積み方に進歩が見られるが20tの巨石をどのように運んだか未だにナゾとのことだった。

7、スリーシテイズ

Img_0012 ヴアレッタの街の対岸に城壁に縁取られ海に手を伸ばすように岬が広がる。ヴイットリオーザ、セングレア、コスピークワの三つの街の総称ヨハネ騎士団はこれらの村々を次々に城塞化し、街を取り囲む城塞コットネーララインを築き上げた。ヴアレッタより古い歴史があるのでグレートシーズの激戦を記憶する多くのものを残すが観光客は少なく庶民が生活する静かな街だった。ガイドブック片手にヴイクトリオーザ目指して散策したが教会が博物館に代わる等名称変更に惑わされた。埠頭から眺めたセングレアの街は美しかった。

8、ゴゾ島

Img_0005 マルタ本島西6kmに位置する東西14km、南北7km人口2万6千人の島で水に恵まれ耕地と緑が広がり、海はより深く青い。美しい海と自然に触れ合う場所で ヴアレッタからフエリーで渡り路線バス観光になる。首都はヴイクトリアでゴゾ島の基点になる青銅時代からの歴史を誇り街の一角のチタデルからは360度のパノラマが広がる。チタデルとは侵略者への抵抗や避難の場所だった高台が騎士団の時代に城塞化されたもので度重なるオスマントルコや海賊の侵攻に備え強固に再建された。

9、アズール・ウインドー

Img_0004_2 ゴゾ島の西海岸ドウエイラ湾とその周辺は変化に富んだ海岸美が続きフアンガスロックと呼ばれる島のような大きな岩の塊が海にゴロリと横たわっていた。アズール・ウインドーは海へ突き出た台地を数千年の風と波の浸食によって造られた高さ20m、幅100m、奥行き40mの自然のアーチで、アーチの間から紺碧の海が覗くとのことだったが生憎の雨模様で残念だった。近くにカリプソ伝説の洞窟があったが岩肌が濡れ危なくて降りるのも大変だった。

10シュガンテイーヤ神殿世界遺産

Img_0002_2 先史時代の神殿が今世紀に入って約30発見され、しかもエジプトのピラミッドよりも古いものとわかり世界最古(BC3500年)の石造建築物と云われる。重さ数トンの巨石で建造された神殿は左右対称で生贄を捧げ豊穣を祈る祭礼の場と云われるが誰がどのように作ったのか不明だが巨人女性崇拝の発祥地と云われる。

11、ゴゾ島の大聖堂

Img_0006_2 1697~1711年にかけて建立されたバロック様式の堂々たるフアサードが印象的だった。イタリア人画家アントニオ・マヌエルによって描かれた天井画は遠近法を駆使した騙し絵により壮大なドームが恰も在るような錯覚を覚える。マルタ中の聖母マリア祭の中で最も人気の高い8月の聖母マリアの被昇天祭などでは、この聖堂が最も賑うそうだ。階段下に二つの古い大砲が置かれていたが当時の教会勢力が伺える。聖室脇には博物館があり儀式に使われた銀、金器を始め絵画が展示されていた。

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