旅行・地域

上高地散策(2014・9)

20代には槍や穂高連峰登山の基地として、よく訪れていた上高地を35年振りに尋ねた。大正池の立ち枯れ木は殆ど無くなったが道は整備され、宿泊施設は帝国ホテルを始め五千尺ホテル、清水屋ホテル、徳澤園等殆どがリニューアルされ河童橋周辺はサンダル姿の観光客やお年寄りでごった返しており、五千尺ホテルのスイーツに長蛇の列ができる等、何処か別天地に来たようだった。しかし徳澤園までの往復で疲労感を感じる等、齢を感じた旅でもあった。そんな旅の一コマを紹介します。

ウエストン碑

Dscf0532_2イギリス人宣教師で日本に三度長期滞在し、日本各地の山に登り”日本アルプスの登山と探検〝等を著し日本アルプスを世界に紹介し”日本近代登山の父”と言われる。昭和12年(1937)レリーフが設置され、毎年”上高地ウエストン祭が行われている。

河童橋

Dscf0538橋上から望む穂高連峰や焼岳、梓川の水面、緑に萌えるケショウヤナギの風景は余りにも有名で、この付近を”上高地銀座”と呼ぶ。昭和2年(1927)芥川龍之介の小説”河童”にも登場するが、その数年前、彼は北アルプスを登山し上高地を訪れたようだ。

大正池

Dscf0546大正4年(1915)突然現れた池だが、焼岳の噴火で多量の泥流により梓川がせき止められ出来た池で、当時の湖面積は39㎢と現在の2倍以上の大きさで、水面の立ち枯れの木々は昭和初期には2千数百本以上あり幻想的な景観だったが、現在は殆ど見られなくなり寂しかった。


明神池

Dscf0569河童橋から梓川左岸沿い徒歩1時間程上流にあり、一之池、二之池の大小二つから成る池で、池畔には穂高神社奥宮が鎮座する神域梓川の古い流路が明神岳からの崩落砂礫にせき止められ出来た池。明神岳から常に伏流水が湧き出るため透明感に溢れている。何時から入場料が要るようになったのだろう?

徳澤園

Dscf0563_2井上靖氏の名著”氷壁”に登場する山の宿。前穂高連峰を真近に望みキャンプ場も有する槍、穂高連峰の登山基地。昭和初期まで牧場として使われていた所を町営宿泊施設としたもので、よく利用させてもらったが今は立派な施設になって居た。

上高地温泉ホテル

Dscf0543帝国ホテル、五千尺ホテル共8月は満室だったので今回利用したホテル。1830~1861年まで上口湯屋として営業。その跡地に1887年”上高地温泉場”を設立源泉かけ流し温泉で文人墨客に愛された宿。ウオルター・ウエストン、芥川龍之介、若山牧水、尾崎一雄、斎藤茂吉他が愛したが、芥川龍之介が長期逗留して小説”河童”を書き上げた事で有名。

旧開智学校

Dscf0587_2松本藩校崇教館の流れを汲み、明治6年(1873)に開校。昭和40年(1965)から明治時代の教育資料を展示した博物館となっている。明治時代の代表的な擬洋風建築で木造二階建て、寄棟造りで外壁は漆喰塗りで庭もよく整備されていた。。

松本城

Dscf0590_2文禄年間に建てられた五重六階の天守としては日本最古。400年余りの風雪に耐え、戦国時代その儘の天守が保存されており、昭和11年に国宝に指定。姫路城、彦根城、犬山城と共に4つの国宝城郭の一つ。何度も訪れながら多分内部見学は初めてかもしれないが、急な階段を登るだけだった。

旧松本高等学校

Dscf0596_2明治32年から20年の歳月をかけて高等学校の誘致活動を展開し、大正8年(1919)に開校した官立の旧制高等学校昭和25年から信州大学の文理学部、人文学部校舎として昭和48年まで使用されていた。”あがたの森公園”に佇む重要文化財。

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天空の歴史遺産と村上水軍居城跡巡り(2014・8)

石見銀山が世界遺産に登録されてから俄然脚光を浴びてきたのが”東洋のマチュピチュ”と言われ、住友財閥の礎を築いた別子銅山の遺構で、以前から興味を抱いていた。そして2014年,本屋大賞を受賞した和田竜著の小説”村上海賊の娘”を読んでから村上水軍の居城跡を見たいと思っていた。幸いこの2か所を組み込んで道後温泉に泊まるツアーを見つけ参加した。しかし前日の豪雨で河又~東平線が落石の為”、天空の歴史遺産”見学バスが不通となり”東洋のマチュピチュ”へ行けなかったのが残念だった。そんな旅の1コマを紹介します。

別子銅山

マリンピア別子・端出場地区

Dscf0489市内中心部から車で45分、標高750mの山中にあり、大正5年から昭和48年まで銅鉱石を掘っていた所で、開通当時の鉄橋を走る鉱山鉄道で3分程で坑口に着いた。火薬庫跡を活かした観光坑道、地中展示施設などを見学できた。

採掘風景

Dscf0496地中深くから掘り出された銅鉱石を男性は45㎏、女性は35kgを背負って運搬するのだが,抗道は全長700kmにも及び,最深部は海抜マイナス1000mと日本で人間が到達した最深部だそうだ。元禄3年(1760)~昭和48年(1973)まで280年間で70万トンを産出したが、労働環境は厳しく当時の平均寿命50歳だったのが30歳位で亡くなったようだ

東平地区東洋のマチュピチュ

Dscf0500大正5年~昭和5年迄別子銅山の採掘本部が置かれた所で、最盛期には社員、家族を含め約5000人が周辺の社宅で共同生活をし、病院、小学校、郵便局、生協、プール、娯楽施設など整備されていた。重厚な花崗岩作りの牽道基地跡の石積は東平の観光目玉だが、実はマリンピアに飾ってあった写真を模写したもので、前日の豪雨による落石で見学できなかった。

道後温泉本館

Dscf05021809年初代町長であった伊佐庭が街興しの為、在任中の全給料を投げうって予算を確保し、城大工の坂本が棟梁となって改築したもの。夏目漱石が松山中学の英語教師に赴任したのが本館完成の翌年で、温泉に頻繁に通っていたようで、彼の小説には、この温泉をよく取り入れている。

Dscf0508_3道後温泉の中心にある温泉共同浴場で”坊ちゃん湯”の愛称で親しまれる街のシンボル的存在で、1994年国の重要文化財に指定2009年ミッシェlラン・ガイド日本編で2ツ星に選定、経済産業省の”近代化産業遺産”に認定されている。写真は道後温泉本館と道後温泉駅(坊っちゃん列車終着駅)の向い側広場にある足湯温泉前のからくり時計。 2年前に訪問し3泊したので市内観光は止め、入浴を楽しんだ。

村上水軍遺構

居城跡

Dscf0523_2伊予水軍1000年の歴史の中で特に南北朝時代には村上水軍と称して、来島、能島、因島に分かれ強大な勢力を誇った来島氏の居城跡戦国時代には八幡大菩薩の旗印を押し立て、朝鮮,支那沿岸まで押しかけ勇名をはせた。徳川時代に九州豊後の山奥に移され、伊予水軍の歴史は終ったが、城主以外はこの島に残ったようだ。現在15人が生活している。

月心庵

Dscf0518島の中腹にあり来島城主の位牌が祀られている。かっては此処に来島村上氏の館があった。建物の後ろは高さ3m程で郭が控え、右には土塁が残っていた。この他小さな祠の村上神社が残っている程度で、当時の面影はなく、頂上は荒れた草地のみだった。

来島海峡大橋

Dscf0531_2”しまなみ海道”の中で最も大きな橋で総延長4kmの世界初の3連吊り橋で、第2、第3大橋の塔の頂上まで海面から184m、橋桁までの高さは65mあり、タイタニック号も通れるようだ。来島海峡の急潮流を体験できる〝急流観潮船”は下から大橋を眺めたり、渦潮観光を楽しむのだが、小説”村上海賊の娘”で有名になり、昨秋より運航時間を10分伸ばし村上水軍居城跡を巡るコースに変更してから観光客が急増したようだ。

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木曽路散策(2014・5)

連休後半、家族で久しぶりに木曽路を散策してきました。妻籠には八重桜が結構残っており、麗らかな初夏の日差しを浴びながらのハイキングは楽しかった。外人観光客が結構多く、宿場町は東京の原宿並みの賑わいだった。そんな旅の一コマを紹介します。

妻籠宿

004慶長6年(1601)徳川家康によって”宿駅”が定められ、江戸から42番目の宿場として整備された。明治以降宿場としての機能を失い衰退したが、昭和43年から始まった街並み保存事業により、江戸時代の面影が甦り、昭和51年、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。当時の姿がよく残っておりフラットな地形なのでゆっくり散策できた。

ホテル木曽路

007今回利用したホテルで、南木曽で初の本格的温泉として湧き出しに成功したようだ。1500mの深所より2本の井戸から湧き出すアルカリ性の極めて良質な湯を利用し、趣向を凝らした各種露天風呂が楽しめた。乗馬、釣り、キャンプ、スパ、等も楽しめ、プライダルやコンベンションホールも備えた本格的ホテルだった。

馬篭宿

017江戸から43番目の宿場で,妻籠から約8km3時間程のハイキングコースだ。道中には吉川英治の小説”宮本武蔵”で武蔵とお通が会ったとされる男滝、女滝があり、深淵とした林道に熊よけ鐘が設置され、急峻な石畳を上る高台から妻籠と濃尾平野そして恵那山が見える。宿場は急な坂道だがよく手入れされており観光客で溢れていた。

高札場

010今で云う”官報掲示板”で、幕府が庶民に対し禁制や御法度を示したもの。お上の御威光其の侭に人々を見下ろすように高札が掲げられていたが、中々難解な文章で当時の庶民は判読出来たのだろうか?外人が盛んにシャッターを押していたが、この建造物の意味するところを理解しているのだろうか?

藤村記念館

009島崎藤村の生家である馬篭本陣跡に建てられた文学館。建築家・谷口吉郎の設計で藤村を愛する村民の手で建てられたそうだ。”嵐””夜明け前”絶筆の”東方の門”等の原稿、書簡が展示されていた。藤村の生家は江戸時代、本陣、庄屋、問屋を兼ねた旧家で、昭和4年から10年迄”中央公論”に連載された、父をモデルとした明治維新前後を描いた小説”夜明け前”が余りにも有名。

恵盛庵

016宿場の下入口200mにある民宿但馬屋に併設された食事処で手打ち蕎麦が美味かった。上但馬屋の看板もあったので旅籠機能もあるのか?駐車場の八重桜が美しかったので遠望したが、建物が分かり難く単に桜を撮りたかっただけ。

中津川宿

020_2中山道45番目の宿で、東濃最大の経済の中心地として栄えた。交通の要衝でもあり物資の集積地として木曽、三河、飛騨方面から品物が集まり宿の家数は中山道で群を抜いていたと云われる。中津川村は7つに分れ、各々の郷村には小庄屋が置かれ、それを統括する大庄屋があった。写真は旧庄屋宅(旧肥田家)

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奈良の近代建築物巡り(2014・2)

連日の寒波襲来で家に閉じ籠った侭で些か運動不足だ。京都と同様奈良も大戦の被害がなかったので明治、大正期に建てられた近代建築物が多く残っている。”なら瑠璃絵”イベント見物を兼ねて奈良の近代建築物巡りを楽しんできた。その一コマを紹介します。

旧JR奈良駅(奈良市総合観光案内書)

002昭和9年大阪鉄道管理局工務課設計(主任柴田四郎)。古社寺を思わせる建物で壁、窓、柱等の作りは古典主義が流行した19世紀ヨーロッパ風だ。鉄道交通が盛んになり始めた奈良で“古典”を自負する心意義がデザインに表れている。平成16年新駅舎新設時、解体せずに18m移動した。(奈良市三条本町)

南都銀行・本店登録文化財

001_2大正15年建設の第六十八銀行が前身で昭和9年南都銀行になった。設計者の長野宇平冶は旧奈良県庁の設計者。国立博物館と並ぶ本格的な洋風建築で、正面のギリシャ建築風の円柱、2階の窓のペテイメント(三角形の飾り)、軒先のモニュメント等が見事だ。商店街の中に建っているので見過ごしてしまうが美しい建物だ。(奈良市登大路町)

奈良ホテル

003明治42年建築の木造2階建てで、設計者は日本銀行本店、東京駅などを手掛けた辰野金吾。和風の外観を持つ和洋折衷様式で関西の迎賓館として開業し,ヘレンケラー、リンドバーグ、オードリヘップバーン、アインシュタイン、ダライラマ等著名人も多く利用した。1945年占領軍に接収され、米軍のレクリエーション施設として使用され、ホテル全体をペンキで塗りつぶす計画もあったがベランダの手すりだけにとどめた。

仏教美術資料研究センター重要文化財)

004長野宇平冶のデザイン規制が生きる奈良公園内に、奈良県物産陳列所として明治35年奈良県技師・関野貞設計により完成。平等院鳳凰堂を手本とし、和風の外観だが全体のプロポーションは洋風。サラセン風の円窓や上げ下げ窓に見られる作りも純粋な和風とは一味違う。昭和26年奈良国立文化財研究所となり内装に手が加えられていたが、今は元に近づける形に改修され現在に至る。(奈良公園内)

奈良女子大記念館重要文化財

006明治42年京都帝国大学建築部長兼奈良出張所長心得の山本治平衛設計による奈良女子高等師範学校本館が前身。ヨーロッパの木造建築の形式であるハーフテインバーを採用した華麗な洋風木造建築。屋根を支える構造は木造トラスで約16mの長さに亘って中間に柱なしで屋根を支えている。建物は竣工以来改変された個所が殆どない当時の姿を残している。

奈良国立博物館・本館(重要文化財

005_2明治27年京都博物館、赤坂離宮等を設計した片山東熊による設計奈良で初めての本格的な洋風煉瓦作りで、煉瓦を複雑に組んだ厚い壁そのものが建物を支える。正面の柱、窓等は実用ではなく装飾としてデザインされている。

奈良少年刑務所

007_2明治41年司法省営繕課・山下啓次郎設計による旧奈良県監獄署。監獄の近代化に取り組んだ明治政府が整備した五大監獄の一つ。正門はヨーロッパの古城を思わせる建物だが当時の受刑者が殆ど施工したそうだ。

なら瑠璃絵

010_2世界遺産・春日大社、興福寺、東大寺を幻想的な光の回廊で繋ぎ、美しく神秘的な瑠璃絵の世界に誘うイベントで、各々の社寺で手を合わせることで幸せが訪れ、平和の祈りとなって世界に届くようにとの思いで開催され今年で5回目になるそうだ。各々でイルミネーションが行われていたが写真は新公会堂の浅茅が原でのLEDイルミネーション。

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京都の街を散策(2014・1)

今年のウオーキング始めは新年会を兼ねて京都の神社、仏閣を初詣しながら7kmの行程に汗を流した。この1年も元気に彼方此方を動き回りたいものだ。そんな一コマを紹介します。

京都大学100周年時計台記念館

011大正14年(1925)に誕生した時計台は、80年近くに亘って京都大学のシンボルとして親しまれてきたが、平成15年(2003)創立100周年事業の一環として最新の耐震工法を取り入れた改修工事を終え外観や内装の雰囲気は其の侭に、”100周年記念ホール”や”国際交流ホール”等を備えた学術交流の場として再生され、丁度記念展示が催されていた。

吉田神社

012吉田山の西麓に鎮座し、節分の前後3日間に行われる節分祭りで有名な古社。貞観元年(859)春日大社の神を観請して平安京の守護神としたのが始まり。広い境内には全国式内神3132座を祀る末社の斎場所大元宮等があり、全国の神社にお参りしたのと同じ功徳があると云われる。既に節分の準備が始められていた。

京都御所

005元徳3年(1331)北朝の光厳天皇が里内裏の東洞院土御門殿を皇居と定めて以来、明治を迎えるまで歴代天皇が住まわれた。築地塀で囲まれた南北約450m、東西約250mの敷地に安政2年(1855)再建の紫宸殿を始め、清涼殿や小御所等豪壮な御殿が建ち並んでいる。事前申し込みで内部見学できたが、春秋の一般公開コースとほぼ同じだったがガイド説明がありよく理解できた。

梨木神社

007皇室の中興に尽くした三条実萬と尊王攘夷派のリーダだった実美の父子を祀る神社。三条家の邸宅があったこの辺りに梨の木が多かったのが名の由来。参道左手にある湧井は、名水を汲みに来る人で賑わう。9月上旬~中旬に参道に咲く萩の花が有名だが、マンション建設が進められて居り残念だ。

宗忠神社

013幕末期の新興宗教である黒住教教祖・黒住宗忠を祀る黒住教は日本三新宗教(外に天理教、金光教)の一つで本部は岡山県。逆立ちした狛犬が珍しい。なぜ逆立ちしているかは不明。桜のシーズンは参道を美しく飾ってくれる事は知っていたが由来は初めて知った。

相国寺

001_2明徳3年(1392)に足利義満が夢想国師を迎えて開山創建した臨済宗相国寺派の大本山。京都5山第2位に列せられた名刹で格式の高い寺。金閣寺、銀閣寺は相国寺の末寺。

蘆山寺

009_2紫式部が生まれ育ち、源氏物語を執筆したと伝わる邸宅の跡に建てられた寺。摂家門跡だったため皇室の帰依も厚く、明治維新までは司っていた。本堂の庭に白砂と雲に見立てた苔が美しい源氏の庭がある。6~9月に咲く桔梗の花が枯山水の庭園に風情を添えるそうだ。この時期見るべきものは少なかったが立派な寺院だった。

知恩寺

010_3浄土宗7大本山の一つ8世善阿上人が念仏を百万遍唱え、都で流行った疫病を封じた事から”百万遍”の号と大念珠を賜ったと伝わり、地名の由来になった。御影堂の中には、円周約100m、重さ約320kg世界最大級の大念珠が奉納されていた。毎月15日に境内で手作り市が開催され賑わうそうで初訪問だった。

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下呂温泉と名古屋方面散策(2013・12)

我が家恒例の年末旅行は岐阜県の下呂温泉から名古屋の熱田神宮方面をノンビリ巡る事にした。幸い天候に恵まれ昨年とは大違いのゆったりした旅行だった。そんな旅の一コマを紹介します。

下呂温泉

016下呂温泉は薬師如来が一羽の白鷺に姿を変え、飛騨川で傷を癒し、温泉のありかを村人に伝えたといわれる江戸時代の儒学者林羅山は下呂温泉を有馬、草津と共に”天下の三名泉”と称し、昭和5年の下呂駅開業などによって発展してきた。昭和49年から温泉保護の為、温水の集中管理を行い、現在55度の温泉を各旅館に配湯している。静かな温泉街でゆっくり寛げた。

医王山温泉寺

011温泉街から173段の石段を登った高台にある臨済宗の禅寺下呂温泉発見伝説に纏わる薬師如来像が本尊。かって湯が峰山頂近くに湧いた温泉が突然出なくなり村人が悲しんだ時、薬師如来が白鷺に姿を変えて村人に新しい温泉のありかを教えたと伝わる。境内からの温泉街の眺めが素晴らしく、桜や紅葉シーズンは素晴しいだろう。

かえる神社

013温泉街の下呂温泉博物館前に誕生した日本で唯一のカエルを祀った神社。”無事カエル””若カエル”等の御利益があるとかで人気だとか?賽銭を入れると”気をつけてお帰りください”等とテープが流れる。強引に作った観光スポットの感じだ。

チャップリン像

014下呂温泉を映画の街にしようと企画されたミラクル事業の一弾だったが、チャップリンに続くものがない為、謎めいた像になっている。ところがチャップリン像を挟んで座ったカップルが結ばれると云う都市伝説が生まれ大人気スポットになっているとか?

下呂温泉合掌村

008白川郷等から移築した10棟の合掌家屋集落で、日本の原風景を再現した合掌の里。飛騨の生活文化と山野草を始めさまざまな植栽等から四季を感じられる施設だが入場料@\800はチト高いか?丁度うっすら雪が積もっており寒かったが中々素晴しい景色だった。

水明館

001今回利用した旅館だが、飛騨川の畔一万余坪の敷地に4つの館が並ぶ、昭和7年創業で昭和天皇も利用された由緒ある老舗旅館で部屋数700室を誇る。横山大観、川井玉堂、堂本印象、橋本関雪等の絵画が飾られ、数々の美術品が陳列された日本の建築美を生かした施設だった。野天風呂、展望大浴場、下留の湯等も素晴しく正月飾りが美しかった。

熱田神宮

023創祀は三種の神器の一つ草薙神剣の鎮座に始まる。日本武尊が神剣を今の名古屋市緑区の火上山に留め置いた侭、亀山市で亡くなった。尊のお妃が神剣を熱田の地に祀り、伊勢神宮に次ぐ格式の尊い宮として篤い宗敬を集め、国家鎮護の神宮として特別の扱いのようだ。約6万坪の境内には千年を超える楠があり本宮、別宮外43社が祀られる立派な神社だった。

名古屋マリオット・アソシア・ホテル

018_2名古屋で今回利用したホテルだが、JR名古屋駅真上にある52階の国際的シテイホテルで15F~52Fがホテルエリア。52Fのスカイラウンジ”ジーニス”から眺めると名古屋城が小さく見える素晴らしい眺望だった。部屋もトリプル使用だったが広々しており、調度品はイタリアンクラシック調でアメニテイも申し分ない素晴らしいホテルだった。

豊川稲荷

026正式名は”豊川閣妙厳寺”と称し、山号を円福山とする曹洞宗の寺院。一般的に稲荷とは”狐を祀った神社”を想像するが、当寺を祀っているのは鎮守、豊川托枳尼真天で、稲穂を荷い白い狐に跨っている事から、何時しか”豊川稲荷”が通称となったようだ。立派な本殿を抜けると狐塚があり、無数の狐が祀られている景色は圧巻だった。豊橋まで足を伸ばし、始めて見る稲荷だったが、伏見稲荷を見慣れている為か違和感があったが参道の商店街も賑わい楽しいエリアだ。因みに日本三大稲荷の選定には諸説あるが、豊川稲荷では伏見稲荷大社、祐徳稲荷神社、豊川稲荷神社と云028
っている。











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初めての海外旅行(1971・10)

旅の話題も尽きてきたので今回は43年前、丁度32歳の時初めての海外旅行をしたが、その思い出を紹介します。台湾の生産委託先の視察旅行だったが、序でに香港、マカオへ立ち寄ったが総てが初体験の楽しい旅行だった

搭乗機

Img_0002_2当時まだボーデイング・ブリッジがなく搭乗機まで歩いてタラップを昇ったのも新鮮だった。上司や先輩が伊丹空港まで見送ってくれ些か気恥ずかしい思いだった。機内食は今と比べると随分豪華だった

国立故宮博物院

Img_0005世界4大博物館の一つに数えられるが展示品の素晴らしさは今も脳裏に焼き付いている。3ヶ月に1度の割合で展示品の入れ替えを行うので60余万点の所蔵品すべてを見ると200年以上要すと云う。現在のように展示品を個別ケースに収納展示していなかったので随分見易すかった。2001年から始まった改築工事で今は建物の趣も随分変わってしまったが当時はシンプルな豪華さだった。

烏来見物

Img_0004今では北投と並ぶ温泉地として有名だが、当時北投は男性天国だったが烏来はタイヤル族の住む秘境の趣で、手押しのトロッコで滝を見に行きタイヤル族の踊りを見た記憶がある。このトロッコも2012・12月の落石で通行止めになっていたが現在は復旧し随分お洒落なトロッコに変わった。原住民の人達の日本語が上手なのに驚いたが、日本統治以前は共通語がなかったので意思疎通が上手くいかなかったと云う。

アバデーインの水上レストラン

Img_0007香港の水上生活者は当時相当居たが1970年以降の陸地への移住政策で随分減ってしまった。その中心に海鮮料理を提供する水上レストランが豪華に見えた。現在はもっと華麗な装飾だが当時でも結構豪華だった。船内は欧米客が多くパワフルな雰囲気だったが味は左程美味いとは思わなかった。

聖ポール天主堂跡(世界遺産

Img_0006市街を一望できる丘に建つマカオのシンボルで17世紀イタリア修道士により設計され、建築には江戸幕府から弾圧を逃れ長崎から渡ってきた日本人キリシタンも携わったポルトガルの西洋文化を伝える建物。完成当時は東洋一荘厳な教会と称されたが1835年の火災で焼失しフアサードのみを残していた。未だ見ぬヨーロッパの美しい建物跡に感激していた。










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軽井沢散策(2013・8)

久しぶりの軽井沢で避暑を楽しんできました。現役時代は軽井沢72ゴルフでよくプレーを楽しんだが、今回はプリンス・グランドリゾート軽井沢に泊って高原散策を楽しむ事にした。長野新幹線に替わってから駅及びその周辺はスッカリ変わってしまい以前の景色が思い出せない。駅前は軽井沢ゴルフコースの9ホールをプリンス・ショッピングプラザに変えアウトレットショッピング等家族連れで楽しむ施設で一杯だった。旧信越線の廃線跡を碓氷峠迄”廃線跡アプト遊歩道”になっており、トレッキングに初挑戦したが炎天下で結構厳しかった。そんな旅の一コマを紹介します。

軽井沢聖パウロ・カトリック教会

Img_0001昭和10年(1936)英国人ワード神父によって設立されたカトリック教会。近代建築の巨匠アントニン・レーモンド設計による教会で、銅版の傾斜の強い屋根と打ちっ放しのコンクリート壁が特徴。1961年から現在まで半世紀に亘りカルロス・マルチネス神父が主司祭を務めているそうだ。堀辰夫の小説にも登場する教会。

軽井沢ショー記念礼拝堂

Img_0002軽井沢開発の父と呼ばれる英国国教会(聖公会)司祭アレキサンダー・クロフト・ショー宣教師によって明治28年に建てられた木立の中に佇む軽井沢最古の教会。カンタベリー大聖堂を母教会とする由緒ある礼拝堂だが現在は別の地に教会がある。30年程前に訪れた事があるが周辺は随分整備されていた。

万平ホテル

Img_0004江戸後期より中山道で旅館業を生業としていた”亀屋”が前身。軽井沢を世界に紹介したカナダ人・英国聖公会宣教師ACショーが軽井沢を訪れたとき、万平2代目佐藤国三郎と親交を深め、外国人の為の洋風ホテルの必要性を感じ1891年創業したホテル。

碓氷関所跡

Img_00051616年江戸幕府によって設置。中山道は重要な交通路であった為関東入国の関門として”入鉄砲と出女”を厳しく監視したようだ。関所の西門は徳川幕府、東門は安中藩が管轄した国境の関所跡で写真は昭和35年に復元した東門。箱根の関所と並ぶ日本三大関所跡の一つ

旧丸山変電所

Img_0006碓氷峠を行き来する列車に電力を供給する為明治44年建設した機械室棟と蓄電池室は平成6年に国の重要文化財に指定された。反対側に”峠のトロッコ列車”の駅があった。

碓氷峠の”めがね橋”

Img_00071997年新幹線開通により廃線になった旧信越線の横川駅ー熊の平間6・1kmを”遊歩道アプトの道”としてトレッキングコースになっていた。幾つかトンネルを過ぎると明治25年完成の赤レンガ4連アーチ橋・碓氷第3橋(めがね橋)が見えた。径間数4、長さ91m、高さ31mの国内最大の煉瓦造りアーチ橋は迫力があった。

中山道坂本宿

Img_0010この宿場は既存の集落が発展して出来たのではなく寛永2年(1625)3代将軍家光の時代に中山道整備の為、安中、高崎藩の領民を移住させ計画的に作られた宿場町で、当時は碓氷峠を越えてきた旅人で賑わったようだ。本陣2軒、脇本陣4軒があったようだが宿場の面影は少なく所々に旅籠が点在していたが表だけで普通の民家に改築され、空き家も多く町は寂れていた。

軽井沢高原教会

Img_0008_31886年英国国教会宣教師ACショーがこの地を訪れて以来キリスト教が根付き、大正10年(1921)に開かれた”芸術自由教会講習会”を原点に誕生した。前身だった質素な講堂にキリスト教思想家内村鑑三始め北原白秋、島崎藤村等が集い”星野遊学堂”の文化的営みが始まった。大戦後これが”軽井沢高原教会”と改名したもの。

軽井沢石の教会

Img_0009_3内村鑑三の無教会思想から生まれた自然の中に居て、自然の一部になったような自由な空間のオーガニック建築を唱っており、祭壇も十字架もない教会。”祈りたい人が自由に集う場所”を原点にした形式に囚われない所が受けるのか結婚式が目白押しで中々礼拝堂には入れなかった。

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サンフランシスコ&ヨセミテ国立公園の旅(2013・6)

サンフランシスコは過去5~6回訪れたが世界遺産・ヨセミテ国立公園は未訪問だったので25年ぶりに訪ねることにした。今回はJALプレミアムエコノミーを利用したが”さくらラウンジ”も使えシートの前後や幅もエコノミーより10cm程広く、ゆったりしているが中途半端な感じだ。SFではヒルトン・ユニオンスクエアを利用したが、暇だったのか低層階ならスイートを用意できると云うので10階のスイートルームを楽しんだ。狭い町なのでミュニバス、ケーブルカー、ミュニメトロを上手く利用すればタクシーは要らないのでご機嫌だった。そんな旅の一コマを紹介します。

ゴールデンゲート・ブリッジ

Img_0002サンフランシスコ市と北の対岸マリンカントリーを結ぶ全長2789m、支柱間1280mの橋だが1937年開通と云うから驚く。1959年までは世界最長で現在は明石海峡大橋が最長。橋の中央の高さは水面から66mあり、現在まで橋の下を潜り抜けられなかった船はないと云う。1988年完成の瀬戸大橋とは姉妹橋。湾内クルージングで橋の真下からも撮ったが迫力ある景色だ。

アルカトラス島

Img_00031934~1963年まで連邦刑務所だった島で、島を取り巻く速い潮流と7~10℃の冷たい水の為、島からは絶対に泳いで脱出できない脱獄不可能な島と言われていた。マフイアの帝王アル・カポネやマシンガン・ケリー等も投獄さていた。島内見学ツアーもあるが今回は湾内クルージングで迫ってみた。

トランスアメリカ・ピラミッドビル

Img_0001ビジネス街の一角に聳える三角ビルは1972年完成の金融会社の本社ビルだが、余りの奇抜なデザインのため当時は市民の不評を買ったそうだが今やサンフランシスコのシンボルでもある。高さ260m、48階建でサンフランシスコ一の高さを誇る魔天楼だ。窓は3678枚、総面積9300㎡だそうだが一般公開されていない。サンフランシスコ名物ケーブカーがゆっくり急な坂を上ってくる景色とのコラボレーションが素晴らしかった。

アラモスクエア

Img_0005高級住宅街がある丘の一角に芝生が敷き詰められた広場があり、目の前にパステルカラーの7軒のビクトリアンハウスが並んでいた。遠くに建ち並ぶ高層ビルと歴史を感じる小じんまりした家々がミックスした景色は素晴しかった。生憎の曇天だったが、のんびり犬を散歩させる人達で賑わっていた。

ロンバートストリート

Img_0004_3別名”世界一曲がりくねった坂道”とも云われる。非常に急勾配の道にZ字状の急カーブが8か所ありドライブテクニックを競って自慢の車が順番待ちの有様だった。1920年この急斜面を車でも通行可能にするため8つのカーブを作ったそうだ。丁度紫陽花が満開でその間を自慢の車を走らせていた。

ヘイトアッシュベリー

Img_0006ヒッピー発祥の地。1960年代当時ベトナム戦争の泥沼化、公民権運動の活発化等アメリカにとって激動の時代だった。そんな社会の流れの中で生まれたのがヒッピーと呼ばれる若者達だ。彼等は安い家賃にひかれてヘイトアッシュベリーに移り住み”反戦、平和、自由”をスローガンに独自のカルチュアーを創り出していった。現在もその名残りでロックやバンクの店、クラブが集まり個性的なフアッションの若者達のたまり場になっていた。街中に描かれた壁画アートが素晴しく、壁画アート・ウオーキングツアーもあるようだ。

ハーフドーム(世界遺産

Img_0009世界遺産ヨセミテ国立公園のシンボルといえる岩壁麓から頂上まで1443m。氷河に削られた岩肌には何とも言えぬ貫録と存在感がある。起源は2500万年前なだらかな山にマーセド川が流れていたが200万年前にはマーセド川の浸食が進みバレーは深いV字谷になった。その後シェラネバダ山脈が隆起し始め、約7万年前渓谷は厚さ1000mの氷河に覆われた。氷河は流れV字谷は氷河に削られU字谷に変化した。2万年前地球は急速に温暖化し氷河は後退し谷底に大きな湖ができ、行き場のなくなった河川は滝となって絶壁から流れ落ち現在の景観が生まれたそうだ。バレー内のセンチネル橋から撮ったが川下りが楽しそうだ。

グレイシャーポイント

Img_0008カリービレッジの頭上の絶壁のてっぺんにあるパノラマ展望台で、眼前にハーフドームが迫り、シェラネバダ山脈が遥か彼方まで続いている。下方にはビレッジが豆粒のように小さく見える。このポイントを訪れるにはビレッジに最低1泊しなければ来れないが最も人気のポイントだ。ハーフドームの頂上を望遠鏡で眺めると1000mの岩壁を制覇したロッククライマー(普通3~4日を要すようだ)の群れが見えた世界のクライマー憧れの岩壁でもある。

アワニーホテル

Img_00101927年完成の歴史的建造物でエリザベス女王やアイゼンハワー大統領等も泊まったアメリカ人なら一度は泊まってみたい憧れのホテルだとか。上高地の帝国ホテルを思わせる重厚な建物で花崗岩や松、樫等はヨセミテバレーで調達したものが使われていた。背後の広大な土地には洒落たコテージが並んでおりハーフドームやヨセミテ滝が眺められる。泊まるのは無理として$45のサンデー・スペシアル・ブランチを楽しんだが良い思い出になった。(因みに我々の宿舎はヨセミテ・ビューロッジ)

ブライダルベール滝

Img_0011ヨセミテには至る所に滝があるが、代表的な滝の一つで花嫁のベールのように白い霧が広がるやさしい姿から名づけられた。滝壺の近くまでトレッキングしたが、風に吹かれた水滴が霧のように舞い降りマイナスイオンを満喫した。他にヨセミテ滝、センチネル滝、リボン滝、ネバダ滝バーナル滝等代表的な滝だけで6つあるが丁度雪解け水が豊富な今は迫力満点だが7月になると殆どの滝は枯れてしまうようだ。

ナパ・バレーのワイナリー巡り

Img_0007サンフランシスコの北東を車で1時間半の所にブドウ畑が広がる丘陵地帯がある。ナパバレーソノマバレーは全米一のワイン産地で大小合わせて400以上のワイナリーがある。ツアーに参加して2つのワイナリーを訪れたがブドウ畑には小さな粒が付いている程度で絵にならない。4種類のワインをテイステイングしたが$40で、購入は1本$280と云う。そんなの1ダース買えるよ。詰らないツアーだった。

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岡山散策(2013・5)

連休後半、35年振りに岡山方面を旅してきました。ホテルグランヴィア岡山を拠点にJRで1時間、更にバスで1時間と随分山奥へ入ったり、倉敷や吉備路散策等楽しんできました。そんな旅の一コマを紹介します。

岡山城

Img_0002本格的な城造りのスタートとされる安土城に習って造られた日本を代表する城郭建築で、旭日川と後楽園を背景に天守台が北に大きく突き出た不等辺五角形の珍しい形だ。宇喜多直家の実子・秀家による築城で、外壁の下見板に黒漆が塗られ、太陽光が当たると烏の濡れ羽色に似ていることから”烏城”の別名がある。昭和6年に国宝に指定されたが昭和20年6月市街地空襲で天守閣、石山門を焼失。昭和41年鉄筋コンクリートつくりで再建されたものだが威風堂々として素晴らしい眺めだ。

岡山後楽園

Img_0001岡山藩主池田綱政公の命により元禄13年(1700)完成の大名庭園、かっては藩主の静養、賓客接待の場として使われたが明治17年(1884)岡山県に譲渡され一般公開された。昭和9年(1934)の水害、昭和20年の戦災では大被害を受けたが江戸時代の絵図に基づいて復旧。昭和27年”特別名勝”に指定。名称は岡山城の後に造られた園と云う意味で後園と呼ばれていたが”先憂後楽”の精神に基づいて造られていることから昭和4年(1871)後楽園と改められた日本三名園の一つ。連休中で人出が大変だったが、満開のツツジが素晴らしかった。

吹屋の街並み

Img_0003岡山から伯備線で一時間、更に高梁からボンネットバスで一時間の標高550mの山麓にあり江戸から明治にかけて中国筋第一の銅山の町で、更に江戸後期からベンガラ造りが栄え、幕末から明治にかけて”ベンガラの町”として知られるベンガラ格子に赤銅石の石州瓦、妻入の切妻型、平入型式等が印象的な商家、町家が建ち並ぶ素晴らしい街並みだった。(国指定重要伝統的建造物保存地区)

広兼邸

Img_0004大野呂の庄屋で享和、文化の頃、小泉銅山とローハ(ベンガラの原料)の製造で巨大な富を築き、江戸末期に建てられた主屋、楼門と城郭にまがうばかりの石垣は今もそのまま当時の富豪ぶりを偲ばせる。映画”八つ墓村”のロケ地にも使われた所だがローカルバス便が少なく不便な所だった。(県指定重要文化財)

旧吹屋小学校

Img_0006校舎は明治33年(1900)から42年にかけて建築され平成24年(2012)廃校となるまで使われていたようで4日は内部も公開されるようだが外観しか見られなかった。夜はライトアップされ暗い山の中に浮かび上がる旧校舎は素晴らしいそうだが帰れなくなる。(県指定重要文化財)

備中松山城

Img_0005小松山の山頂(430m)に築かれており、天守の現存する山城としては随一の高さを誇るようで途中までタクシーを利用したが上り下りが大変だった。城内には天守、二重櫓、土塀の一部が現存し昭和25年重要文化財に指定。城の歴史は古く鎌倉時代の延応2年(1240)に秋庭三郎重信により砦が築かれた事に始まり、毛利氏の東方進出の拠点として備中の要衝としての役割を担ったようだ。現存する天守は天和3年(1683)に水谷勝宗により修築されたものだが天然の岩場を利用した石垣が素晴らしかった。(国指定重要文化財)

武家屋敷

Img_0007備中松山城を下山すると250mに亘って武家屋敷が並んでおり石火矢町ふるさと村として岡山県の指定を受けており、路地の両脇には白壁の長屋門や土塀が続き当時の生活の面影がしのばれる。2軒の武家屋敷が公開されていたが新鮮味はなかった。

倉敷の街並み

Img_0008戸時代天領として栄え倉敷川には多くの船が行き交い、綿や米の集積地として発展した川沿いには豊かな商人の町家や土塀が建ち並ぶ。大正時代に入ると柳宗悦を中心に民芸運動が盛んになり、昭和初期には実業家・大原孫三郎が日本初の西洋美術館を設立するなど文化的にも発展した街だ。白壁の蔵に柳が揺れる倉敷川沿いの大原美術館、大原家住宅、弁隣荘等がライトアップされており昼間の喧騒が嘘のようだった。














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